Logo
Home
Lessons
Notebook
Dictionary
JLPT Test
Video
Upgrade
Feedback
Logo
Home
Lessons
Notebook
Dictionary
JLPT Test
Video
Upgrade
Feedback
Todaii Japanese
Switch language – current: en
Logo Japanese
[email protected]
(+84) 865 924 966
315 Truong Chinh, Ha Noi
www.todaiinews.com
DMCA.com Protection Status

About Todaii Japanese

Brand StoryFAQsUser GuideTerms & PolicyRefund Information

Social Network

Logo facebookLogo instagram

App Version

AppstoreGoogle play

Other Apps

Todaii German
Todaii English
Todaii Chinese
Todaii Korean
DMCA.com Protection Status

Copyright belongs to eUp Technology JSC

Copyright@2026

Dictionary

Word Details

幽王 (周)

^ 「平家物語」烽火之沙汰-され共幽王の御心にかなわざりける事は、褒姒笑を含まずして、惣て此后笑うことをし給わず。異国の習には、天下に兵革起る時、所々に火を挙げ、太鼓を打て、兵を召す謀あり。是を烽火と名付けたり。~此后一度笑めば百の媚ありけり。幽王嬉しき事にして、その事となう、常に烽火を挙給ふ。 オオカミ少年

Related Words

幽王

(?-前771) 中国, 西周の最後の王。 第一二代。 褒姒(ホウジ)を寵愛して后にしようとしたため, 正妃の父申侯が犬戎(ケンジユウ)と結び, 周を攻め, 西周は滅びた。

幽繆王

幽繆王5年(紀元前231年)、代(現在の河北省張家口市蔚県)の地で大地震が発生した。楽徐から西、北は平陰まで被害が及び、家屋や牆壁の大半が壊れ、地割れが東西百三十歩に及んだ。 幽繆王6年(紀元前230年)、趙で大飢饉が発生した。民は口々に、「趙は泣き、秦は笑う」と言った。

周幽斎夏龍

名辞書』に名がある。『肉筆浮世絵』第十巻(集英社)はこの夏龍について、「職業絵師とは思われず、美人画を好み描画の素養のある人」と評している。一方、「耕織図屏風」は狩野派風で、浮世絵師というより狩野派に学んだ画家との評もある。地元の画家ということもあり、佐賀県立博物館が積極的に夏龍作品を収集している。

文周王

文周王(ぶんしゅうおう、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる。 蓋鹵王が王位についたとき、文周

荘王 (周)

荘王は大夫辛伯に命じ、そのため黒肩は殺害され、儀叔克は南燕(現在の河南省延津県)に逃れた。 側室の姚氏が産んだ弭叔頽を溺愛し、太子の姫胡斉(釐王)を疎んじたが、結局は太子がその後を継いだ(しかし、孫の恵王の代に弭叔頽は自ら周王と称した)。 ^ 『春秋左氏伝』より ^ 同じく『春秋左氏伝』より 表示 編集

簡王 (周)

簡王(かんおう、? - 紀元前572年)は、中国の春秋時代の周の王。姓は姫、名は夷。 周の定王の子として生まれた。紀元前586年11月己酉、定王が死去すると、簡王は即位した。 紀元前580年、周公楚が伯輿(中国語版)と政権を争って敗れ、出奔した。簡王は劉子を派遣して鄄で周公と盟を交わさせ、呼び戻し

頃王 (周)

頃王(けいおう、? - 紀元前613年)は、中国の春秋時代の周の王。姓は姫、名は壬臣。 周の襄王の子として生まれた。紀元前619年8月、襄王が死去すると、頃王は後を嗣いで周王として即位した。 紀元前618年春、頃王は毛伯衛(中国語版)を魯に派遣して、襄王の葬儀費用の負担を求めた。

恵王 (周)

恵王(けいおう)は、周朝の第17代王。釐王の子。 釐王5年(前677年)、父王が崩御し、その後を継いだ。 恵王元年(前676年)に即位すると、田地で野獣を飼育するなど国人の不満を引き起こしたため、翌年(前675年)秋、辺伯・石速・詹父・子禽・祝跪の5人の大夫は叛乱を起こし、燕と衛の軍を招き寄せて恵

穆王 (周)

穆王(ぼくおう)は、周朝の第5代王。 昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。 彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、飛ぶように走ることができる「絶地(ぜっち)」、鳥よりも速い

景王 (周)

、景王は劉定公を派遣して趙武(趙文子)を潁でねぎらわせた。紀元前533年、景王は賓滑を派遣して甘の大夫襄を逮捕した。紀元前531年、景王は単成公を厥憖の会に派遣し、晋の韓起(韓宣子)と会合させた。 紀元前527年、景王の太子の寿が死去した。紀元前521年、景王は無射という大鐘を鋳造した。

文王 (周)

紂王の暴虐に見切りを付けた諸侯は、次第に姫昌を頼るようになるが、当の姫昌は最期まで決起することなく、諸侯達を引き連れて紂王に降伏し、殷(商)の臣下であり続けた。内緒では姫昌は、そのような仁政と並行して、対外戦争によって版図を広げる。軍師として呂尚(太公望)を迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須や、近隣の方国の盂国を

安王 (周)

安王(あんおう、生年不詳 - 紀元前376年、在位:紀元前402年 - 紀元前376年)は、周王朝第33代の王。威烈王の子。姫喜(烈王)、姫扁(顕王)らの父。 紀元前386年、斉の大夫田和を斉侯に封じる田氏代斉を行った。太子の姫喜(烈王)が後を継いだ。 表示 編集

襄王 (周)

帯、甘昭公)を寵愛したので、襄王は王位継承が異母弟にいくのではないかと恐れていた。 恵王25年(前652年)、恵王が崩御した。襄王は恵王崩御の喪を伏せると同時に斉に使者を送り、その支援を得て即位した。 襄王3年(前649年)、叔帯は戎・翟と謀って襄王を攻撃した。襄王は叔帯を誅殺しようとしたが、叔帯

平王 (周)

乗じ、西方の犬戎と協力して幽王を攻撃した。前771年、幽王と伯服は驪山において殺害され、褒姒も犬戎により連れ去られ、ここに西周は滅亡した。 父幽王が非業の死を遂げた後は、廃太子されていた宜臼は外祖父の申侯、繒侯、許の文公、従父の鄭の武公などの諸侯によって、申にて即位させられた。しかし、都城である鎬京

定王 (周)

王が死去すると、定王は後を嗣いで周王として即位した。 紀元前606年春、楚の荘王が大軍を率いて陸渾の戎を討ち、洛水に達した。定王が王孫満を派遣してねぎらわせると、荘王は周の九鼎の軽重を訊ねた。王孫満は天命がまだ革まっていないとして、回答を拒否したので、荘王はあきらめて楚軍を撤兵させた。

成王 (周)

成王(せいおう)は、周朝の第2代の王。武王の子。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号である。 同母弟は晋の開祖の唐叔虞。他に邘叔・応侯・韓侯らの兄弟がいた。 易姓革命後、わずか2年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位する。 当時はまだ周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛(紂王)の子の武

武王 (周)

大敗した紂王は首都に逃げ帰り、そこで焼身自殺を遂げた。それを追ってきた武王は紂王の遺体に3本の矢を打ち込み、焼け爛れた首を黄金の鉞で落とし旗の先に掲げた。 殷を滅ぼし天子となった武王は、紂王によって誅殺された比干(紂王の叔父)の墓を改葬し、幽閉されていた箕子(紂王

康王 (周)

父の薨去に伴い即位する。祖父は武王の第1代王。その治世は「天下安寧で刑錯が四十余年用いられない」と称されたというが、実際は召公奭や畢公高の補佐を受けながら、外征を繰り返した。彼の代に周は各諸侯への威信を確立し、国家体制が安定を創出した。康王の代までが周の確立期であった(成康の治)。 死後、子の昭王が後を継いだ。

霊王 (周)

霊王(れいおう、? - 紀元前545年)は、中国の春秋時代の周の王。姓は姫、名は泄心。 周の簡王の子として生まれた。紀元前572年9月、簡王が死去すると、霊王は即位した。 紀元前568年、霊王は王叔陳生を晋に派遣して、周室が戎に圧迫されていると訴えさせた。晋は王叔陳生を拘束した。